バタン島漂流記

あらすじ

 愛知県常滑市大野町の千石船が、1668年江戸からの帰り路に遭難し、約1ヶ月漂流した後、フィリピン北部のバタン島に漂着した。15人の船員は土人に船を壊され、すべてのものを略奪され、奴隷としてこき使われる。年寄りの2人は働きが悪いので殺され、1人は材木で肋骨を打ち死んだ。
 この国では金属類が貴重なものであったので、一旦日本に帰って金銀銅、鉄類を沢山持って帰って来るので船を造りたいと土人に嘘をつき、半年がかりで小船を造りあげた。
 仲間の1人はその間に土地の女と結婚し、日本には帰らないと言い出した。結局、残りの11人は、バタン島に着いてから約一年半後、自ら造った小船で決死の覚悟で出航した。
 10日後、中国の宝登山に漂着、ここで船、地図、磁石を手に入れ、日本に向かった。そしてついに九州五嶋に着くことができた。しかし、日本は鎖国の真っ只中、不審者として奉行による長期間の取調べが待っていた。名古屋に着くことができたのはそれから3ヶ月後、ついに常滑まで帰ることができた。
 家に帰ると女房が他の人と結婚している人もあれば、気が狂って自殺した人もおり、帰って来て良かったやら悪かったやら。この命がけの冒険を末の世に残そうと書き記したのがこの物語である。


常滑に残る漂流記(原文は毛筆縦書)

寛文八年申九月
大野村木之下町権田孫左衛門船婆靼國江
吹流候口書一件

一、尾州知多郡大野村木ノ下町権田孫左衛門と申者之
商船材木を積拾五人乗寛文八年申九月大野
を出船いたし同中旬江戸江着致シ則船町問屋
井口屋久左衛門と申者支配ニ而、荷物共方々へ相渡し
船に飯米三石程積入尾張様御材木并植木数
千本積入其外千賀志摩殿内与八郎殿荷物を積
入同十月下旬ニ江戸出船致シ伊豆國下田迄参り
霜月四日出船いたし同五日三州片濱之内大山より三里程
沖へ五日之晩に吹出され大王と申邊ニ而大西風強く吹
申候ニ付何卒船懸り度碇をおろし候へ共中々海深ク
碇縄届き不申候兎や角と申内に早五六里程東之方江
吹流され申候様に覚候是ニ而は中々叶不申と存拾五人
者共元結切拂龍神祈願を掛ケ申候ヘ共次第に吹流
され八日之朝ハ帆柱を切捨申候然共帆懸ケ船よりも
早ク兔角東ノ方へ吹流され候を覚申候同十五日ニハ風
替り楫直しひたもの西之方へ行候様に覚申候其時船ニ
少も水無之候難儀仕候皆々寄合相談いたし龍泉寺
甚目寺之観音へ雨を祈り立願を懸ケ天間を請雨を
待申候其時舟頭次郎兵衛申候ニハ常に習置候事有之是
潮之水取給申候儀を傅授いたし置候と鍋に潮汲入れ
其上に桶をふせいきの不出様に蒸候ヘハ桶に露たまり
水弐升程取申候其内に立願の雨ふり水沢山に成り
申候薪ハことかき申事無之切捨候帆柱の元口も有
之大船の諸事薪に成候物色々御座候扨皆々打寄
候而飯米たばい可然と申人数拾五人ニ而一日ニ米弐升宛
給申候漸壱合四勺ツゝにて暮し居申候故力も落身も
よハリ猶以飯米無覚束候とて皆々考へ相談致シ其時
千賀与八郎殿荷物尋見申候ヘハ豆葉并葉茶御座候を
取出し米少し宛葉茶を入ぞうすいに仕候又ハあへもの
にいたし給居申候同十五日より北風吹申候十五より廿五日まで
十一日斗りひたもの西之方へ行と覚申候風替り未申ノ方へ
行クと覚申候流レゝ申内に西之方に嶋一ツ有南に壱ツ東ニ
壱ツ嶋三つ有何れ之嶋へ上り可申と御くし取候ヘハ東之
嶋へ上り可申様に御くし下り申候付則嶋へ申極月六日晝八ツ
時分に上り申候霜月伊豆國下田を出極月六日迄東南
西北江ひたもの流れしはし船之とまり申事も無之候三
十日余りニ彼嶋へ着申候夫よりてんま船に乗彼嶋の様子
見申候ヘハ何共不知人あたま出申候其人の躰ハ天窓ずん
きり眼ハ鳥の目のことく身ニハ着物なく世の常の人とは
はだへ違申候色黒く何共しれぬ者にて其恐ろしき事
生なから地獄へ行し心地にて身もひへ渡り生たる心は
更々無御座候然共ミくしに任候ヘハ其者共に此方より此嶋ハ
何と申國之嶋にて候哉と相尋候へ共言葉の通辞透と無
御座一切埒明不申候夫より我々共小船ら乗り大船へ参り候而
船よりしかた仕湊を尋候ヘハ嶋の者共又手ニ而しかた致し南
の方ニ有由ニ付漕寄セ申候ヘハ小き嶋の脇御座候付碇を四ツ
下シ繋申候処に其夜嶋の者共小船参り麻碇綱一筋切
申候ニ付此方よりも番を付居申候へ共嶋之者共夜中かゝりを
焼明七日朝嶋之者共何百人共不知数出来リ大船の荷物
小船にてうばひ取申候此方も少々ハ防候へ共久々腹一杯食物
給不申力もおとろへ暫防見申候へ共力にも難及てんま船も打破
我々共嶋にて大勢にて取廻され既に殺さんと色々手
道具有合品々ニ而向申時拾五人の者打揃大神宮を祈り
申浜に有合之石爰元ニ而十人斗リニ而持兼候様成大石に
手を懸ケ申候ヘハ不思議に此石かるゝ敷五升目程ニ覚申候故
軽々差上嶋の奴原になけつけんといたし候然処暫恐る躰
に見ヘ誠ニ難有存居申候其後七日晩より八日之朝迄かたはらに
居申候又大勢寄集り兎角少々有合之金子着類下帯
迄はき取壱人ツゝ引分ケ我々か処へつれ参候いやと申せハ
寄合而打たゝき申候セハ高く七尺斗り見へ申候力ハ随分
つよく三斗持之者日本にて大力と申者程に申事ニ候船より上り
申候濱ニ而大石取廻し御神力ニ而働を見セし故無躰に
手向ひも致し不申神力に恐れて拾五人無事にて婆靼の
者に仕われうきめにあふ難儀仕候然共かゝる情なき畜生国ニ而も
色と情上下善悪品有十五之内に色にて婆靼に心残セし者も有
浅間敷事共申も悲敷奉存候扨拾五人銘々主人を持山へ登セ
薪とらせ畑へやり草とらせ芋を植させ船着之処ニ日数十日斗リ
仕ハれ居申候此所芋より外五穀無之人の住申所共存不申候其上
何事も言葉通辞不申候又文字無之候ヘハ読書申事無
御座候何共難儀仕候又宣敷所も有之哉と嶋の内壱人
弐人ツ申合せ忍ひゝに尋申候ヘハ道三里脇ニ而家数七八軒ほと
御座候処見出し候此所之者ハ仕形にて諸事通辞候へハ所ニハ
米百石斗リ積申候船も有之様ニ申候其所の船に乗セ日本へ遣シ
可申哉と存初メの所を夜逃にいたし彼所へ拾五人なから
参り別れゝに約束仕つかハれ申候兼々約束仕候百石斗リ
入候船沖へ参り申仕度いたし候故我々共歸リ申事と嬉
敷天にも登る心地いたし悦ひ申事かきりなく弥我々
日本へ被遣候哉と尋申候ヘハ余所へ参り候其方抔乗セ
申候事成不申と高々敷申付候其時我々共申候ハ兼々約速ニ而御
座候所違へ申候かと嶋の者共恨申候ヘハ嶋の者共言訳之様ニ相見申候
扨々悲敷事に存候右之船三十日斗リ過而歸リ申如何共可致
様も無之嶋に被仕居申候然内船頭次郎兵衛酉三月頃より相
見不申主人に尋申候ヘハ畑へ行れしか見ヘ不申候由偽居申候
不思議ニ存子供たらし尋申候ヘハ年寄之物ハ働不申とて殺し
申候ハ婆靼の習ニ而親にても年寄候ヘハ山へ連行谷へなけ込殺シ
申候浅間敷事限りなく候我々共常々相語に日本ニハ金銀沢山
有之又は真鍮銅鉄何程ニ而も有之進上申度と語り
我々の内にも大分御座候と偽申候ヘハ婆靼之者共ハ何となく日本
の子供同前ニ而今度之流船にさへ色々鉄銅多ク候ヘハ偽ニ而者有
間敷と申候能々金銭抔大切なる事ハ婆靼之内に大将之女房
相つゝき申様成者之女房弐人斗銭壱文に細き縄を通し
首に懸居申候是も常ハ懸不申何にても祝事外へ出候時
懸申候如此之事故嶋之者ニ申候ハ我々日本へ被遣候ハ鉄銅沢
山ニ取参リ候而進可申候と主人共たらし申候ヘハ嶋の者申ニハ船ハ如何
と申す宜御座候ハ作リ可申と答ヘ申候鉄類ハ無之杯見候者も
なく由申ニ付初而上り候処に我々持来リ候よき其外色々
古釘抔御座候御借リ被下候ハ作り可申と語リ候日本ヘ参り鉄
類品々珍敷物共取参リ此度之恩賞にしんし可申と
偽リ候ヘハ嶋之者申ハ日本ヘ帰リ何之よしミに来んそ其時
我々申ニハ爰にハ紫檀黒檀杯御座候日本へ積参り候得は
金銀につり替に賣申事ニ候ヘハ此後ハ商にいたし折々行
通可致とたはかり申候ヘハやさしくも誠に思ひ斧壱挺借り
出し借シ申候間船作り可申候作り候ハ山の木何本成共望ミ
次第又此方之者手傅に出し候ハんと申候故酉ノ十月より作り
かゝり一日ハ山薪をいたし畑へ行船にかゝり戌ノ三月時分出来
致シ申候船之木ハ◇◇◇木にて作り立申候斧一挺ニ柄三本
拵へ山ニ而ハ長き柄又けすり申時ハ短き柄にさしかへ遣ひ申候船之
長サ八尋程ニいたし鉄類無之故かすがひニハ合釘に桑の木ニ而
致し緝のことくニ致シ留メ申候船之大釘弐本所之者ニかりのみ
に致シ遣ひ申候合釘穴ハ桑之木をけすり至極たゝき◇◇◇
山へ行木を見立申艫軸?格好よく作り申候船半分過出来の
時分大野村長吉と申者木ニうたれあはらを打折殊之外痛
ミ三十日余り看病いたわり候得共薬と申物も無御座候故終に相果
申候其節長吉婆靼の者へ能キ事申置候長吉最期之時分方便に
主人を呼寄セ追付船も出来可申候間段々御恩報シに金銀鉄其
外珎敷物色々取参りセめて御恩かへりにしんし可申と十三人
之者共常々申合居申候に私事不慮成あやまちにて只今相
果申候御恩も不返申事面目もなき仕合私替りニ十三人の衆へ
申右之品々沢山に取参り我等主人江わけて沢山に進シ可被
下と申相果申候故嶋の者共弥誠と思ひ主人を始メ嶋の者共
涙を流し申候。長吉最期に能キ事申置候故、其後より嶋の者共
我々を少シハ懇に致し申候扨又半田村五郎蔵と申者何と存
候や我々が相談に乗り不申候日本にて上手の大工共夫々之道具
にて木拵へ釘かすかひ又ハあかゝねまて張廻し楠樫の木色々
丈夫ニいたし作り立てワすか海上三百里斗り成江戸通ひ風
あらく候ヘハ船そこない人死数多有之事此度皆々細工に船
造り釘かすかひもなき木釘ニ而相釘致し木之かわを縄に
ない候而からけたる小船に乗り此中天竺のはてより千里万里とも
知ぬ海上を日本へ渡り申さんこと此中々五郎蔵ハ心得不申と合
点致し不申候十弐人の者色々すゝめ申候へ共其後よりハ船之手傅
にも不参候又五郎蔵申ニハ何国の海上ニ而も手を組合セ鮫の
餌になるとも一緒と存暮セしことなれハ是非我々か申通り日本
へ帰り候へと色替品をかへ申候へ共聞入不申皆々ハ日本へ帰り成り共
海へはまり成共勝手次第此五郎蔵ハ爰に残り少シ成共生存へ
申が世の楽ミと申兎角合点致シ不申候畜生之国ニ残し帰り
申候も不便に存出船之節ハ無理に引込ミつれかへるへくと談
合いたし出船前ニ成り候間五郎蔵を尋候ヘハ主人と談合致
しふかく隠れ逢不申候最早我々無是非若我々が工面を五郎
蔵語りもやセんと存船を急き申候五郎蔵事女房を持ぶた
犬馬牛けたものを給身を穢し申候我々ハ日本へ帰り申度
三年之内精進仕こりをとり神佛へ立願仕候五郎蔵事ハ
兎角神のとかめ故と後にハ思ひ出申候扨船も出来候故戌
三月四日十弐人寄合あたごしやうじんを始メ日本の地ハ北か
東かと太神宮之御籤取候ヘハ北之方と御くし下り申候扨亦
船出候日和四月中旬か下旬かと御籤取り候ヘハ中旬と下り
申候故日本へ渡り申候船之用意ニ入申品々

  芋三十日程給申程
  水桶大小八ツニ入 鍋十枚ほうろくのことく
  土にて造り申候 斧壱挺則船を造り候節
  くれ申候  のみ弐本是ハ古釘ニ而拵申候 
  小刀弐本婆靼之者細工ニ打申候
  蒲の穂之様成物ニ袋 是ハ何か入申候へハとめ申候
  日本へ土産ニ致シ此替リニ金銀鉄沢山ニ持参
  申様ニとてくれ候品々
  長弐尺斗之小船壱隻 婆靼子供持遊ひニ仕候
  はた織申候ひ弐本 日本ノひニ替る事なし
  着物 たはこ入十ヲ是ハやしほのからにて作り申候
  やしは五十四?くわしニ仕候
右之品々船ニ入申候
扨戌之四月十五日婆靼を出船仕候互の別れハ唐土天竺も
替らす畜生国とハ申なから三年之馴染故色々と情も
御座候而別れのかなしミおかしきも悲敷事なり寛文八
年申之極月六日より戌四月十四日?出入三年婆靼ニ罷居申候
十五日出船何国へ行ともなく御くしのおもてニまかせ風にした
かひ同月廿四日南京之内宝登山と申所へ着ク此処きれい
成る嶋にて右之処ニ四月廿四日より五月廿三日迄居申候人之住
家も無御座不審ニ存船にて尋廻り候ヘハせき船とおぼしき
船漕寄せ候処様子尋候ヘハ言葉通し不申候然共日本は
東に當り申様にしかた仕候扨喰物なくなんきに及候故磯ニ而
之間海草をもとめ給居申候然内ニ又船一隻ニ十五人乗参リ
申候此者共ハ日本之奉行之躰ニ相見ヘ申候其内ニ旦那らしき
仁髪ハ唐輪にむすんてゆゝ志く相見へ申候不残銅をさし
船之中ニハ半弓鑓長刀も見得申候其内に日本の言葉を
能通し申仁壱人出候而何国之船何方より来候哉ととがめ申候
其時我々共ハ日本之者ニ而寛文八年申年難風に逢天竺
之内婆旦と申処へ吹流れ我々乗候船荷物迄うばいとり
むたいに三年之間つかわれ申候此度我々共自身に船を造り
是迄参り候と始終をかたり候ヘハ南京衆船作様日本船
にはなく候と被申候故御尢ニ而候先刻申上候通りばたんの木ニ而
私共造り候と申候ヘハ得心被致候而皆々いたわり被下候南京人
是をと申米五升程くれ被申候三年めニ而米といふ物を
見申候扨三里程漕行候ヘハ南ヘ着殊之外能湊御座候故此
所より船を下り居申候内南京人くれ申候品々
  米七升程 やくわん壱ツ日本之とハ違申候
  塩肴弐十斗 塩辛四五升
  杉板弐枚船損シ候ハ、取付申用意
  竹の子つけ少し
  薪一把 方角磁石針 弐本
  菜漬少シ 木綿着物六ツ
  まきたし一把 からけ付申所ニ遣ひ申様ニと
  縫針五本  糸少々
  長崎渡り海上のさしず絵図
右之ことく念頃に致シ申事偏ニ太神宮の御蔭と又ハ
御上之御威光にてかゝる異国之末迄も日本之事存たる程
之国ニ而は念頃ニ致シ申候難有奉存候はたんの者之情なき
仕方ともに今わすれかたく涙を流し申候右南京ニ廿日斗
日和待居申候内ニ小船ニ壱人乗参仁言葉日本人之ことく
能通し日本ハ是より東ニ當り申候我ハ日本ヘ折々渡り候
長崎迄船路百九拾里程有薩摩五嶋へも渡リ候と念
頃に教ヘ其人被呉候品々
  剃刀   壱挺    鋏   壱挺
  縫針   壱本    糸   少シ
  竹ノ子漬 少シ    米   三升程
右之品々申請候殊之外念頃におしえ此処ニ逗留之内近
邊見物に出候へ何ニ而も用事あらハむかい被参候得とおしへ
被申候是ハ只人ニ而ハあるまし太神宮かりに人となり
教へましますとしん々かんるいなかし難有不思議成事
数しれす候扨教へに任セ其所へ参リ候其時くれ候品々
  鍋  壱枚  木綿着物 壱ツツゝ
  米  三升程 塩魚  少シ
右之通くれ申候此処ニハ寺も御座候間我々共二三ケ所見物仕候
かわらニて下ニハ石を畳のことくしき仏檀ハ日本之ことく佛ハ
釈迦大日之ことく成木佛金佛ニ而御座候寺之奥ニハ日本之
畳蔵?之様ニ幾ツも御座候是ハおきふし仕候様ニ見へ申候其
外山之松抔も日本之松と違ひ不申候扨二三ケ所寺見物
仕候処右之奉行之船程近く相見へ候ヘハ此処へ何とて来候哉
指図之処ニハ居不申左やうニ我儘ニ歩行候ハゝいやしからんと
申早々帰り可申由ニ候間 急き船乗日和待居申候右之あがり
申候処ハいかさま寺地之様ニ相見ヘ申候而寺ばかり御座候百姓
かましき家ハ間々ニ御座候其人躰ハあたま真中ニ一寸四分斗
之丸サに髪を残し後ロへなして脇ハきつはりとすり申候
田畑も皆々牛にてすき申候日本之牛より大きサ弐つかけニ
見ヘ申候百姓申ハ昔ハ髪をもそり不申候近年たつと言国と
ていといふ国よりせめ取今皆々其国之風に成申候扨日和も
能成り戌五月廿八日ニ宝登山を出船いたし申候mシ宝登山へ
着申候処月日少シ違申候是ハ去年閏月御座候事を
不存暦見る事無御座ばたんにて一ヵ月違申候月大小ハ
一月はさみニくり候ヘハ違ひ可申候南京人ニ習候より慥ニ覚申候
右之ことく五月廿八日宝登山を乗出し六月五日ニ日本之内
五嶋と申処ヘ着申候皆々夢現のことくニ存しハしうれし
泪にむせひ居申候其時太神宮難有さ申も中々言葉
及不申候ばたん乗出し候より不思議成事とも御座候走船
の先々俄に浮嶋見へ其上にちとり抔空を飛ひ候頓而
彼嶋見かけ近付候ヘハ嶋ハ無之夢のさめたる心地十方に
くれ居申候事ハ折々のこと婆旦を出しより白鷺一羽
先に立ふハ々たち行申候兎角神の御手引と存鳥の
行方へ船走り申候神国の難有さ身の毛もよだちて
難有存候扨水呑切候ヘハ能程に雨ふり水にことかき不
申喰物抔も申請夢現のことくにて五嶋に着申候扨
五嶋の奉行と相見へ小船ニ乗参候而申様何国之者ニ候哉と
尋被申候我々ハ日本之者ニ而御座候と申候其時役人爰ハ
日本之五嶋と云所也何国之船そと被尋我々ハ尾張之
国大野村と申処之者ニ而候寛文八年之難風ニ吹流れ申候
と右之委細を語り候ヘハ奉行衆我々に可参候様ニ御申被成候
故五嶋の湊迄つれ被参候てより直ニ御城下江注進被致候
得は則御城下御奉行被参候私共口上委細ニ書付船之
中諸道具不残書付被参候夫より私共ニハ番を附被成其
処より十五里程有御城下へつれ行御城下より被下候品々
  米三斗壱升入   壱俵
  同三斗七升入   壱俵
  味噌小樽壱    薪五束
  塩  弐升    塩魚 廿
右之通被下候 五嶋之内ニ廿日余リ御留置夫より長崎へ船
三隻にて送り被成候御奉行三人御付此方より人質弐人御取
御奉行衆之船ニ乗セ當七月廿四日ニ長崎迄御送り届ケ
長崎御奉行船道具等御改拾壱人直ニ牢者被仰付一両日
牢之内ニ居申候壱人ツゝ被召出様子御尋被成候一々ニ申上候
て牢者致居申候右之口上書を江戸へ被遣候長崎牢之
内ニ戌九月朔日迄居申候朔日朝四ツ時ニ牢を御出シ被成
候而ばたんニ而造り申船并諸道具南京ニ而貰申候品々不
残御賣立被成候而長崎御奉行所より紺之綿入壱ツツゝ被下
路銭抔も御奉行様より御渡シ被下道中御奉行壱人御供
弐人我々拾壱人ニ十一人之人足を御付被下戌九月十九日尾
張御城下迄御送り届千賀志摩殿御奉行衆ヘ御渡し夫より
被召呼候而委細御聞被遊右道中遣銭壱人ニ付九百五拾文
ツゝ御わけ被下郡御奉行様より親類并ニ所之庄屋組頭被召
呼御渡し被遊候右之通御公儀様ヘ口上書之趣如此ニ御座候 
以上
一、婆靼ニ我々居申候処巾五里程御座候処ニ山ニ大木御座候地ハ
  黒土也 大将之名ハ山野麦南外司と申候
一、畑ハ山を焼候而植物ハ芋斗作り申候其外五穀類無御座候
  日本之なんばんと申唐とのきびを少々ツゝ植申候たはこ少々作り申候
  生物ぶた野牛犬鼠蛇とかけ小鳥鯲の類也
一、はたんの者虱喰不申候男ハ犬を喰申候女ハ給不申候一年共一ケ月
  ともワかち無御座候三ヶ月を見候而壱ケ月の様子ニ覚申候四季の分チ
  も盆正月と申事も無之いつも暖にて寒中と思ふ時日本ニ而三
  月時分の様ニ覚申候仏神と言事もなく親の命日と云?
  もなく年忌事なし
禮義之事
一、死人ハ畑ニ埋申候血ニ呼れ申候ても家之内へ入事無之外ニ居候而石ニ腰
  かけ食抔給申候女中ハ耳よりくわんを通シ祝言の時ハやうらくをかけ申候
  珊瑚珠琥珀類ニ而御座候家ハ二間ニ九尺程ニつくり木之皮ニ而からけ屋根ハ
  ちかやニ而ふき申候軒高サ三尺程家之内敷物木をうすくそぎ並へ 
  我々家ハ日本のことく作り申候
居申候着物なしわれ々共其侭臥リ申候 はたんの如く作り候てハ出入
ならす候故也 婆旦言葉 家ハわかい 戸ハあんねん なべハわか
ほうろくハまかた 大嶋といわな嶋と軍仕候四月二日より五月十日迄
まかた大嶋三百九人討れ申候手負九百人余いにな嶋九十一人
うたれ申候手負四百余人軍之欠引さま々有 まかた大嶋 小
出嶋 とこす嶋 とゝら嶋 切山嶋 かうろさん嶋 たねたやん嶋 打くら
し嶋 徳中嶋 ほう々さやん嶋 かせき嶋 さいたやん嶋 石かいしま
まへまき嶋 かくさい嶋 よしことり嶋 そくぞく嶋 かつの嶋 はなし
ひ嶋 めつそくらん嶋 さをか嶋 かいくり嶋 はるがや嶋 きし出の嶋
れちたちん嶋 こるくり嶋 まなたよい嶋 うへたやん嶋 〆三拾一嶋
はたんの内也
          中村権右衛門
    譲受人  
          平野助三郎

参考文献